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  • yanxia2008

【村上春樹 未公開インタビュー】

2013.6.29(土)

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』につながるもの ー 「まじめで強い日本人には、原発をなくすことができる」。

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村上春樹 未公開インタビュー「まじめで強い日本人には、原発をなくすことができる」
2013.6.29 alterna

 「今回ばかりは、日本人は心の底から憤っていい」――。作家、村上春樹氏(64)が2011年11月、オーストリア人ジャーナリストに強い口調で原発事故を語った日本未公開インタビューの存在が明らかになった。未曾有の原子力事故に対して誰も責任を取ろうとしない現状を指摘し、「日本の非核三原則も偽善だ」と非難する激しい内容だ。(ジャーナリスト・桐島瞬、翻訳・岩澤里美)

 村上氏が初めて福島原発事故に対する意見を述べたのは2011年6月、スペインのカタルーニャ国際賞の授賞式だった。

 「私たち日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった。私たちは技術力を総動員し、叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求するべきだったのです」

 内容の大半を東日本大震災と原発事故に費やし、国の原子力政策を正面から批判したバルセロナでのスピーチは話題となった。

■ 東電、政治家を痛烈に批判

 その5カ月後。村上氏は東京で、オーストリア人ジャーナリスト、ユーディット・ブランドナー氏(50)のインタビューを受け、再び原発事故について語っていた。その内容は、バルセロナでのスピーチをはるかに上回る激しいものだった。

 インタビューは、オーストリア放送協会のラジオ番組で村上氏の肉声とともに昨年3月に放送され、ブランドナー氏がまとめた東日本大震災のルポ本(Reportage Japan、日本語版=Japanレポート3.11)にも収められた。だが、残念ながら日本語版への掲載は村上氏の許可が得られず、日本の読者が中身を知ることはできない。

 そこで、インタビューで村上氏が何を語ったのか、放送された内容やブランドナー氏への取材を通じて明らかにしよう。

 ――「日本は3.11以降、岐路に立っています」と村上春樹は述べ始めた。いや、社会の中の大きな変化は彼にも見えない。「ほとんどの芸術家や知識人、そして国民の大部分が望むように、私も変化を望んでいます。でもこの考えを取り入れる政治家はいません。私にはそれが理解できません」(Reportage Japanから引用)

 安全性に自信を持っていたはずの原発が壊れ、日本人は自信を失った。国民全体がこれからどちらへ向かえばよいのか迷い、不安の中にいる。日本が変わって欲しいと願う人は多いが、リーダーシップを持った政治家がいないと村上氏は言う。

 変わるためにはまず、原発事故の責任を誰かが取るべきだと考えている。

 「東京電力の社長とか何人か、本当に刑務所へ行くべきだと思う。何より日本の検察庁が刑事告発しないのです。これはすごく変なことだと僕は思います。誰も責任をとることをしないのです。これは、すごく間違ったことと僕は思います」

 事故を起した当事者が責任を取るのは当然のことで、事業責任者を訴追しない国にも苛立ちを見せている。

■ 「日本人は心の底から憤っていい」

 村上氏によると、日本には大きな問題が3つあるという。

 ――誰も責任を取らないこと、日本に国民投票がないこと、緑の党がないことだ。(中略)市民運動が働きかけているように、国民が国家レベルで直接投票する選択肢が日本にあれば、大多数が原発に反対だと表明するだろうと村上は確信している。「でも、私たちにはそれがないため、人々は意思表示ができないのです。彼らには現在の政治家たちと戦う力がありません」(Reportage Japanから引用、注:緑の党は2012年7月に結成)

 ブランドナー氏が補足する。

 「『政治家の指導力が不足し、私がバルセロナでスピーチをしてもそれを掬い上げる政治力がない。グランドプランを示せる人もいない。国民投票制度が存在せず、国民が意志を発表できないことは、原発事故で生活の基盤が失われてしまった福島の人たちにとって不幸なことだ』と話していました」

 村上氏が多くの日本人は原発に反対しているのを感じたのは、バルセロナでのスピーチを聞いた知り合いの反応からだ。ラジオ放送で流れたインタビューの中でもこう語っている。

 「僕の知っているほとんどの人は(スピーチの内容に)賛成してくれたし、日本人の中で、原子力発電は間違っていると思っている人は多いのだと思いました」

 中にはインターネット上で村上氏に否定的な発言もあった。だが調べて見ると、それは東電の社員がやっていることが多かったと言う。

 村上氏は、日本人のまじめで強い資質をもってすれば、原発をなくす事はできると語る。

 ――原子力の撤廃は可能だと彼は確信する。日本がテクノロジーの面で、代替エネルギーに振替えられるからというだけではない。日本人の独特の「国民的な気質」にもよる。「一旦、国家目標が決められれば、全員がそれを達成するよう努力します。一旦、何かが決定されれば、全員そろってそれに従います。もし原子力の撤廃が決まれば、全員が絶対に努力してその実現に協力し、自分たちの電力消費も喜んで減らすでしょう。けれども、いまはそんなふうに目的を決定する人が誰もいないのです」(Reportage Japanから引用)

 日本人は感情を出すことが得意ではない。だが、10万人以上が自分の土地を離れなくてはならなくなった今回の原発事故では、「日本人は心の底から憤っていい」と村上氏は考えている。

 その一方で、こんな疑問も呈した。

 「『広島、長崎への原爆投下でたくさんの人が死んだのに、どうして原発ができたのか。それはよく分からない』、『政府が原爆は悪い、原発は良いと教育や情報操作をしていたのは大きいことだと思う』とも言っていました」(ブランドナー氏)

■ 在日米軍基地に核兵器、憲法第九条は偽善

 やがて二人の話は、鉄腕アトムに及ぶ。

 ――村上は私たちの対談で、一例として、50年代の日本のポップカルチャーから原子力を肯定的に描いた漫画「鉄腕アトム」を挙げた。「鉄腕アトム」(アトミックボーイまたはアストロボーイ)とは逐語訳で「鉄の腕の核」のことで、スーパーヒーローの少年だ。原子力のおかげでスーパーパワーを持つ。このヒーローによって、原子力に対する肯定的なイメージが国民に浸透した。(Reportage Japanから引用)

 手塚治虫氏の漫画、鉄腕アトムの連載が始まったのは、戦後7年経った1952年。一方、日本の原子力研究開発予算はその2年後に国会に提出され、55年に原子力基本法が成立した。手塚氏の意図がどうだったにせよ、結果的にアトムは原発推進に一役買うことになってしまった。

 インタビューで村上氏は、米軍の日本への核兵器持ち込みというデリケートな問題にも触れた。

 ――日本の憲法はいまもって核兵器に反対し、その製造、所持、配置を放棄している。これは偽善だと村上は激しく非難する。アメリカ軍が日本の米軍基地に核兵器を持っていることは一般的に知られているのに、誰もが何も知らないかのように振る舞っているからだ。憲法第九条が、長い間「平和条項」と特別に呼ばれてきたことは誰もが知っているはずだ。(Reportage Japanから引用)

 村上氏はこう言い切る。

 「沖縄の米軍基地に核兵器があることをみんな知っているのに、知らない振りをしたため、中身の無い平和憲法になってしまった。憲法第九条が骨抜きというか、守られてこなかったことは、日本人なら誰でも知っていること」相手が誰であろうと臆することなく物を言う村上氏の姿勢には、09年にエルサレム賞を受賞した際のスピーチを思い出す。周囲の反対を押し切りエルサレムに出向き、イスラエルのパレスチナ自治区ガザ侵攻をこう批判した。「高く硬い壁と、それに逆らって割れる卵があったら、私は常に卵の側に立つ。たとえ壁が正しく、卵が悪くても関係ない。私は卵の側に立つ」

■ 岐路に立つ日本にふさわしい小説を

 村上氏は、ある種の覚悟を抱いて発言を続けているのだろうか。ブランドナー氏が、日本で最も成功した作家として特別な責任を感じているのかと水を向けると、村上氏はこう答えた。

 「自分の仕事は書くこと。だが、外国に出て語ることも僕の責任だと思っている。そういうところで発言できる日本人は限られている。だから、きちんと意見を言いたい」

 村上氏が早稲田大学で過ごした時代は、全共闘の真っ只中だった。多くの全共闘世代と同じく、当時が原風景として残っているという。

 ――「私たちは18歳、19歳、あるいは20歳で、非常に理想主義的でした。私も世界が段々とよくなるだろうと、私たちはそう、それに向かって頑張っていたわけですが、そう信じていました。当時は非常にナイーブでした。そして多くのことが起き、私はもう信じなくなったのです。でも、この理想主義は感傷的な思い出として残っています。いまのほとんどの若者は、そんな理想主義をもう持っていないと思います。少なくとも、大規模な運動はありません。私の世代はこの理想主義がかつて存在したことを重視しています。それ以降、すでに40年が経過しましたが、そのような時がまた来ないのだろうかと自問します。それが成功するかどうか?分かりません」(Reportage Japanから引用)

 村上氏が3年ぶりの長編小説を書き始めたのは、このインタビューから3ヵ月後のことだ。このときはまだ、どういうものを描くのか決めていなかった。村上氏はこう話している。

 「原子力発電所の事故そのものを描くよりは、もっと内的なもの、心理的なものを描くほうが大事なんじゃないかという気はしています。日本人が分かれ道にいる大切なときであり、それにふさわしい小説を書かなくてはいけないでしょう」

 そして、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文芸春秋)が出来た。過去に心の傷を負い、死ぬことだけを考えながら生きていたことのある主人公が、自分を取り戻すために巡礼の旅に出る物語だ。村上氏はつくるの生き方を通じて、日本人の置かれているいまを表現しているようにも見える。

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