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#066 前川喜平文部科学事務次官講演録

(2017.1.14)

 

文部科学事務次官前川喜平氏          

2017年1月14日(土)講演 福島市市民会館第2ホール

福島に公立夜間中学をつくる会主催「夜間中学を知る集い」にて

 

 

  文部科学事務次官の前川喜平でございます。今日はおまねきいただきましてありがとうございます。夜間中学のことは、旧文部省に1979年に入省して以来ずっと気になっておりました。

 

 特に去年すごく大きな一歩を踏み出すことができたことを皆さんと一緒に喜び合いたいと思っておりますし、今後ますますやるべきことはありますが頑張っていきたいと思います。 私の思いやこれまで考えを積み重ねたことについては後輩に引き継ぎたいと思います。まず文科省が「夜間中学のご案内」なんていうリーフレットをつくったのですが、10年前だとあり得ない「驚天動地」なわけです。

 

 これも政治の風向きが変わったということです。文科省はただの役所ですから、政治が動かなければ動きません。個人名を挙げれば、たとえば文部科学大臣をやっていただいた馳浩さんという政治家がいるということです。もちろん馳浩さんだけではなくて、自民党や 民進党、公明党、共産党などの中にも夜間中学校を応援していこう、作っていこうという方々がたくさん増えてきています。義務教育を受けられなかった人びとに普通教育を受けられるように夜間中学を増やしていこうと。やはり長年、運動し続けてきた方々の思いが実りました。

 

 今日は県議会・市議会議員の皆さんにたくさん来ていただいている。とてもとても心強く思います。本当にありがたいです。政治が動けば動く。皆さんの長年の努力が実りつつあるということです。

 

 教育機会確保法「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」は、去年の12月7日に、ついにできました。いままでのわが国の教育法制度を大きく変えていくきっかけになればと思います。もちろんこの法律だけでは十分ではありません。この法律の精神に基づいて、次の制度、財政措置などを積み重ねていくことが国および地方公共団体に求められています。

 

 義務教育の世界から取り残されてしまった人びとがたくさんいるのに、これまで文科省は それを見て見ぬ振りをしていました。国勢調査であらわれているように小学校を卒業していない方々が約12万人います。国勢調査では現状では小学校を卒業できなかった方々しか統計はつかめません。したがって中学校を卒業できなかった方々の数字は、把握できていません。(国勢調査を実施している)総務省に伝えましたところ「わかりました」と言っています。次の国勢調査からは中学校を卒業していない、つまり義務教育を修了していないという人びとの数字を正確につかめるようにしていきたいと思っています。

 

 義務教育を修了していないということは、中学校の卒業証書をもらっていないということです。しかし中学校の卒業証書はもらったけども実際には中学校までの勉強をしていないという人は多数います。全国で小・中学校で不登校の子どもたちが毎年およそ12万人います。この数は減っておりません。その中で約1割以上の子どもが、学校にほとんど来ていない。不登校の定義は、年間欠席日数が30日来ていないということです。その中で、全く学校に来れていない子どもが約1.6万人いるのですが、この子どもたちは中学校の卒業証書をもらっています。

 

 中学校の卒業式で「中学校の全課程を修了したことを証する。○○中学校校長□□」って、 本当に心から言ってますか?全課程を修了したと本当に心から言ってますか?と、私は聞きたいのです。さまざま配慮して、課程を修了したとは本当は言えないけども、中学校の卒業証書をさしあげたいということならわかりますが。

 

 しかし、これまでの夜間中学の取扱の中では、中学校の卒業証書をもらった人は夜間中学に入れないということでした。極めて形式的な話です。もう一度、中学校のことを勉強したい人は、本来入れなければいけなかったのですが。

 

  文科省は通知を昨年出しました。決して文科省が入ってはいけないと言っていたわけではありません。法律上に問題はありません。もういちど入れるのですが、各市町村の教育委員会の方針として受け入れていなかったということです。

 もういちど中学校で学びたいという人は、中学校を卒業した人でも、各市町村の教育委員会の判断があれば、入学していただくことは可能なのです。

 

 実際には中学校の卒業証書をもらっているけれども、中学校までの勉強が十分にできていない人がたくさんいらっしゃる。こういう方々に門戸を開くことがこれからの夜間中学の大きな役割の1つとなります。

 

 それからこれまでは学齢期を超過した人びとしか夜間中学に入れませんでした。これも文科省の方針としては、ほかの中学校から学齢期の子が転校してきても良いということを明らかにしたのです。転校してはいけないという法律はございません。したがって不登校の子どもたちの受け皿として、学ぶ機会を享受するための場所として夜間中学をとらえることは法律上可能です。形式卒業者で学齢を超過した入、そして不登校で学齢期の子どもたち、つまり本来なら昼間の中学校に通っているはずの年齢の子どもたちですが、本人の希望があれば、夜間中学校で受け入れることが可能ですよということを、わざわざ文科省が言うようになったのです。受け入れるかどうかは教育委員会や中学校の判断です。事情によっては受け入れられませんという判断もあるかもしれません。しかし制度的にはやっちゃいけないということではない。やっていいですよということです。

 

 設置者のご判断ですから。制度としてそれはできますよ。不登校の子どもたちも夜間中学を活用することをはできますよということを言っています。

 

 文科省がこんなふうに変わったのも本当に隔世の感があります。私もやっと言いたいことを言えるようになってきたのです。もうすぐやめるからというのもありますが。でも、言いたいことが言えるというのは楽しいですね。

 

 夜間中学校の歴史をたどっていくと、昭和41年(1966年)に当時の行政管理庁、つまりいまの総務省です。その行政管理庁から夜間中学早期廃止勧告が出ているのですね。夜間中学校は、戦後の混乱の中で、昼間に労働しなくてはいけなくて、事情があって学校に行けなかった子どものような、やむにやまれぬケースのためにつくられてきたものです。しかし、 そのような対象となる生徒が、昭和41年時点では、ほとんどいなくなっているのではないかと。子どもが全員昼間の学校に行けるようにするのが、本来の学校の使命であると行政管理庁は言ったわけです。だから夜間中学は廃止して、みんな昼間の中学校に行けるようにしなさい。だから夜間中学はいらない。そういう理屈です。

 

 行政管理庁は各省よりも一段高いところにあるので、行政管理庁からの勧告は、当時、文部省も「ははー」と受け取るしかなかった。実際、夜間中学校を設置していたのは、墨田区とか足立区とか各市町村。墨田区にしても足立区にしてもよく頑張ったと思いますよ。 行政管理庁からやめろと言われ、文部省も同調しているのに、よく頑張ったと思いますよ。 その間には墨田区にしろ足立区にしろ、相当の葛藤があったと想像しています。又部省もはやくやめろって言っているんだから夜間中学校を廃止しないと文部省から睨まれるんじゃないかと、気にする人は絶対にいたと思う。絶対いたけども、いや〜、やめるのはいかんだろう。必要とする生徒もいるのだし。あるいは先生方に、やめないでくれと言われ、ちょっとやめるとうるさいから、やめるのはやめようかとか。

 

 こういうことが繰り返されながら続いてきている。廃止の憂き目に遭わないように続けてこられた、31校の夜間中学の関係者の方々には本当に頭が下がる思いです。私が文部省に入ったのが1979年、廃止勧告が1966年。勧告が出てから、まだ10年ちょっとしか経っていないときに私は文部省に入ったわけです。

 

 当時の雰囲気としては、夜間中学校はタブーだったのです。夜間中学は、あるにはあるけれども見て見ぬ振りをしろと。これは簡単に廃止することができないというのは文科省も分かっていたのです。しかし行政管理庁から廃止しろという勧告を受けて、けっして「夜間中学のご案内」、など作れる雰囲気ではなかったのです。私の諸先輩たちは、夜間中学は見て見ぬフリというのが文科省としては正しい道であるという感じでしたね。

 

 しかし私は文部省という役所に職を得て、全ての人が学ぶ機会を保障することが、われわれの行政としての使命であるとそう思って仕事をしてきました。その私の拠り所は憲法26 条です。その精神、理念に基づいて仕事をするのが文部科学省としての目的であると考えておりました。

 

 この憲法26条について、あらためてふりかえって考えたいと思います。教育を受ける権利というのは、人権の中でどういう位置をしめるのか?人権保障の中で最も大事なものであると私は思います。もちろん人権というのは個人の尊厳、ひとりひとりがかけがえのない価値を持っているんだということからはじまるわけです。お互いのひとりひとりの価値が十分に発揮できるようにしましょう。そこから人権が派生していくわけです。思想の自由とか、表現の自由とか、信条の自由、職業選択の自由、参政権など。

 

 すべての人権の元となるのは、私は教育を受ける権利ではないかと思うのです。なぜかと言えば、個人の尊厳とか幸福を追求する権利とか、自分の人権を本当に意味あらしめる、 発揮することができるためには、学習することが必要。学習することができなければ、自らの人権を守ることができない。私はすべての人権の不可欠の基礎として、教育を受ける権利・学ぶ権利があると思っています。

 

 さらに言えば、人権保障にとどまらず、憲法の三原則と言われるもの、それは教育を受ける権利がないと成り立たないと思っています。憲法の三原則は、国民主権、基本的人権の尊重、そして永久平和主義。この3つであります。

 

 18歳選挙権が実現して、にわかに主権者教育ということが言われるようになりました。こ れからは学校に複数の新聞を置くようにしましょうと文科省は言うようになりました。新聞を通じて政治参加の勉強をしていくということが大事だと考えているわけです。主権者たりうるために、主権者として地方自治の方向性や、あるいは国の政治の方向性を判断するために、主権者として、こうあってはならないとか、こうあるべきだ、これは変えなければならない、とか、これは続けなければならないという判断をするために、やはり学ぶということが必要です。

 

 本当に学ばなければ、賢い選択ができないのです。賢い選択をするためには、学ばなければいけない。学ぶためには考えなければいけない。考えることのできる学び方。誰かの言っていることを鵜呑みにする学び方はいけません。子どもたちに対して政府のひとつの考え方を注入することを英語で“indoctrination”と言います。日本語で言えば洗脳です。洗脳する教育をやってはいけない。

 

 ひとりひとりに考えさせて、自分が学んだことをペースにして、自分自身の結論を形成できるような人間を育てることが教育の目的。別の言い方ではアクティブラーニングと言っている。自分で考えられる人を育てるようにしましょうと言っているわけです。

 

 そういう学び方ができて、主権者としての役割を果たせる。永久平和主義というのも、学ばなければ実現しないのです。見城先生が先ほど映画の中で戦争のことに言及しておられました。これは学ばなければ分からない。私だって戦争を知らない子どもたち世代ですか ら。

 

 私はUNESCOの仕事に関係したことがあるのですが、本当の平和のためには国境を越えて人と人が精神的に繋がっていくことが大事だ、というのがユネスコの精神です。ユネスコ憲章の前文に、非常に大事なことが書いてあります。

 

 戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。こういう言葉からはじまるわけです。

 

 Since wars begin in the minds of men, it is in the minds of men that the defenses of peace must be constructed;

 

 そのあとにいろいろとあるのですが、無知とか偏見というものが戦争の原因で、お互いを知らないということが戦争のベースになっている。だから教育や文化や学術といった分野で、国境を越えて人と人とがつながっていくということが本当の平和の土台になる。政府と政府の間で、条約を結ぶだけでは本当の平和を維持できない。これがユネスコの考え方なんです。

 

 教育基本法も同じようなことをもともと言っております。いまの教育基本法も立派なのですが平成18年の改正前の教育基本法の前文を読みますと、「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」(昭和22年教育基本法)

 

 これは非常に重要なことでありまして、日本国憲法の理念を全部実現するためにも教育が必要なんだとうたっております。

 

 憲法26条が具体的に教育を受ける権利を規定しておりまして、その条文は、

 

 「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」

 

と書いてあります。教育行政はこれを唯一の柱としているわけです,

 

 「すべて国民は」と言うところからはじまっているのですが、これは憲法学から言っても議論があるのですが、日本国籍を特っている人だけに保障されるのかということです。そういう考え方も確かにあります。

 

 しかし、それはおかしい。基本的人権は人間が人間であるがゆえに保障されるべきものであって、国民だからということではない。犬や猫には保障されないけども、しかし人間ならば保障される。人間である限り。そう考えれば国籍を問うものではない。国籍は何であっても構わない。国籍はなくても構わない。人権は保障されなければならない。

 

 しかし日本国籍を持つ人だけに保障されるものなのだという考え方もあります。裁判所もこちらの考え方をとっています。その場合には、何らかの形で憲法26条を補完することが必要ですが、補完するものはあります。それは国際人権規約です。国際人権規約に日本は加入しております。外国人であっても教育を受ける権利があるというのは、国際人権規約で決められています。仮に憲法が保障していないとしても、国際人権規約で保障されていますから、外国の方も教育を受ける権利を持っているということであります。

 

 憲法26条は「法律の定めるところにより」、といっている。つまり憲法26条が「あなたは学校に入れますよ」とは直接言っていない。法律がないと具体的に保障されない。なので、 憲法ができた後に、教育基本法や学校教育法によって具体的に保障される。ところがいままでの法律では十分に保障されていない人たちがいた。

 

 義務教育未修了者の方、中学校形式卒業者のかたがた、不登校の児童生徒、あるいは無戸籍のかた、引き揚げ帰国者、在日コリアンの方がた、定住外国人の方々、あるいはオーバーステイ(不法滞在している人たち)とか、長い間監禁されていた人びとなど、いろんな事情で教育を受ける機会を保障されていない。憲法26条が保障しているはずなのに、いまの政府の元ではこぼれ落ちている、いやこぼし落とされているひとびと。

 

 こういった方々に対して、学ぶ機会をきちんと確保しましょう、という法律ができたので す。2ケ月ちょっと前に。「法律の定めるところにより」と憲法にあるのですが、非常に重要な法律が加わった。いままで落とされていた人たらを救うための法律ができた。第一歩ではありますが、本当に画期的なことです。

 

 法律の定めるところにより「その能力に応じて」等しく教育を受ける権利を有する。その 「能力」とは、なにか。ひとびとがそれぞれ多種多様な能力を特っているという意味です。100人の人を1番から100番まで並べ序列化する、そういう尺度で測れるものではない。 ひとりひとりがそれぞれ多種多様にちがう。全ての人を、ひとつの尺度で表す方法はあります。偏差値、IQ。人の能力を数字で表しているものです。数字の大きいか少ないかで人を評価してしまう。ここで言うのは、単一の尺度で測れるようなものではなく、多種多様な質の異なる能力です。その能力は日々伸びていく。勉強すれば勉強しただけ成長する。昨日の能力と今日の能力とでは異なっている。

 

 その能力に応じて「等しく」教育を受ける権利を有する。等しくと言うのは「同じ内容の」教育という意味ではない。なぜなら能力が全然違うから。赤い能力と青い能力とか。これは譬喩ですけれども。これは虹色ダイバーシティから借りてきたのですけれども。紅色というのは性的指向や性自認、セクシャルマイノリティの紅色。さまざまあるということ。赤からはじまって橙黄緑青紫赤。そういった多種多様な、それぞれに色の違う性的指向や性自認がある。それを同じように人それぞれ、さまざまな能力に応じた教育の機会が必要。教育を受ける権利を等しく持っているということを言っている。同じ中身ではなく、みんな同じ権利を持っているということ。にもかかわらず、同じ権利なのに、その権利は保障されていない人たちがいるということです。

 

 憲法26条第2項に、義務教育のことが書いてあります。

 

  「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」とありますね。ここの「すべて国民は、」と いうのは、親あるいは親代わりに子どもを保護するものはすべてと考えています。ただ、 国民はと書いてあるからということで、学校教育法上の就学義務が外国人には課されないとの解釈があります。学校教育法は、子どもが6歳になった4月には必ず小学校に入れなさいと、そしてその子が15歳になるまで必ず学校に通わせなさいとあります。通常は15 歳になると中学生ですけども。しかし学校教育法のそのものは、15歳で必ず卒業するとは書いていません。原級留置と言うこともおこりえます。いまはほとんどありませんが。たとえば、病気で小学校5年生をもう1度やるということなど。15歳で小学校というケースもあり得ると想定しています。しかし15歳の3月で親あるいは親代わりが子どもを学校へ行かせるという就学義務は終わります。

 

 就学義務は15歳の3月で終わります。これまで文科省の考え方は、憲法は「すべて国民は」からはじまっているので、学校教育法主の「国民」に課せられている規定として定められていると考えてきました。そのため、外国人にはこの義務はないと考えられている。外国人の親が学校に通わせなかったとしても就学義務違反とは言わない、となっているのです。義務としては外国人にも課した方が良いのではという考え方もあります。

 

 それは就学義務をどう考えるかと言うことにあります。ではなぜ憲法26条が親や親代わりに保護するものに就学義務を課したのか。子どもはまだ学んでいないので、自分で自分の権利を守ることはできません。だから子どもに代わって子どもの人権の実現のために保護者に就学義務を課しているわけです。

 

 子どもは学校に行く義務があると考えている人もいますが、それは違います。子どもは権利者です。子どもにはその義務はありません。義務があるのは保護者です。

 

 そう考えると、子どもの権利を保障するために保護者に義務を課しているのだから、日本人か外国人かを問うものではないと私は思います。

 

 義務教育という言葉はたしかに憲法26条に出てくるのです。親が子を学校に通わせる義務を負っているというのが義務教育。そのように解釈できます。つまり親に義務を課しているという意味です。しかしそもそも、人権を保障する義務は、国はもともと負っているわけです。学びの機会を保障するよう国は義務を負っているわけです。そのような国の義務に関しては26条に直接の言葉としては出てきませんが、憲法26条第1項の教育を受ける権利があるという裏側には、それを保障する義務が国にあるということなのです。

 

 その義務を実現するために具体的につくられているのは、まず学校教育法。市区町村に対して必ず小中学校を設置しなければならないという義務を課しています。設置しない場合は隣の町や市に行けるようにする。こういう方法もあります。あるいは複数の市町村が共通の学校を設けるという一部事務組合を作って共同するという方法もあります。しかしいずれかの方法で、必ず子どもが学校に行けるように教育の機会を確保する義務があるのです。これは市区町村の小中学校設置義務と言っています。

 

 それから都道府県に対しては特別支援学校の設置義務を課しています(学校教育法第80条)。さまざまな障害に応じた特別支援学校が整備されていますけども、かつては盲・聾・養護学校と言いました。いまでもそのように呼んでもいいわけですが、制度上は特別支援学校です。盲学校・聾学校は昔からあったのですが、養護学校は戦後長い間十分に整備されておりませんでした。ちょうど私が文部省に入った1979年に養護学校が義務化されました。 すべての病弱や肢体不自由、知的障害、そういった盲聾以外の障害のある子どもたちが通える学校が、やっと全国にできた。それが1979年にできたのです。それまではどうしてたかというと、就学猶予および就学免除というかたちで「学校に来るにおよばず」ということでした。それは通える学校がないからでした。それらを都道府県に必ず設置しなさいという設置義務を課したのです。養護学校を必ず設置する義務を課したのがその年、1979年です。

 

 義務教育の学校に関しては、国が教職員の給与費を負担する。義務教育費は国が負担する、 国庫負担法。小泉内閣の三位一体改革によって負担率は、2分の1から3分の1に減りまし たが、そのうちの3分の2は地方交付税で負担されることになりました。そのため100%国が給与費の財源を確保しています。それぞれの学校に最低限どれだけの教職員を置かなければならないかは、義務標準法という法律が定めています。義務教育の教科書は国が買い上げてすべての子どもに配付する。教科書無償給与制度と言います。そのように法律を作ることによって、国に義務教育のお金を負担するという義務を課しています。国庫負担金というのは国がお金を出すことを義務づけられている。法律で国や地方公共団体にさまざまな義務を負わせることによって、どの地域でも義務教育をきちんと受けられるようにしています。

 

 一方で子どもは権利者です。教育を受ける権利を持っています。義務教育を受ける権利が15歳で途切れることはありません。普通教育というのはそれぞれの人が社会的に自立して生きていくためには必要だと考えられます。その普通教育が不十分なのであれば、その機会を与えないといけない。人権に年齢制限はないのです。義務教育を受ける権利は15歳の子にはあるけども、16歳以上はないなんてことはない。教育を受ける権利には年齢制限はない。私はこれを、声を大にして言いたい。

 

 したがって、教育を受ける権利を保障する義務にも年齢制限はないのです。私が嫌いな言葉に、就学猶予・就学免除という言葉がありますが、そういう子どもさんが、いまでもごく少数ですがいます。やむを得ずその子どもに学校を準備できないということも、わずかながらあります。先ほど申しあげました1979年以前の養護学校義務化以前は、就学猶予・就学免除がたくさんありました。

 

 しかし行政や国が猶予や免除という言葉を使うのは、国の方がおかしいのです。たしかに就学義務を有するのは親や保護者で、養務は果たさなくていいですよ、と言うことですが、そもそも果たしようが無いじゃないですか。学校がないのだから。それを猶予するとか免除するというのはおかしい。むしろ通える学校がないことのほうが問題なのであって、それを保護者や親の義務を免除するとか猶予するというのはおこがましいと私は思うのです。こんな言葉は早く無くした方が良いと思いますけどね。結局まだ残っているのですけどね。

 

 いずれにしましても、義務教育の世界から取り残される人が1人でも無くなるようにしていくことが私どもの仕事だと思っております。それが少しずつ少しずつ進んできています。 先ほどの養護学校ができたというのもひとつの前進だったんです。今回の教育機会確保法によって文科省も前向きになりました。これまでの行政管理庁の呪縛が解けるときです。文科省がですね、こんな「夜間中学のご案内」なんてつくってですね。私も生きてて本当に良かったと思いますよ。

 

 文科省の説明資料の中で、良いこと書いているんですよね(笑)。夜間中学は様々な理由により義務教育未修了の学齢超過者や本国で義務教育を修了していない外国人などの学習ニーズに対応した幅広い教育を実施。今後は不登校のために殆ど学校に通えないものに教育の機会を提供していくことをしたい。

 

 各都道府県に少なくとも1つ夜間中学が設置されるようにすること。こんないいことをいままで言わなかったんですよね。本当に生きててよかった。これは政治の風向きが大きく変わったからです。県ないし市町村の教育委員会を動かしていかなければならない。それを動かしてくださるのは政治家の皆さんです。民主国家における政治家の役割というのは非常に大きいです。

 

 私は38年前に試験で選ばれました。「全体の奉仕者」ではありますが「国民の代表者」ではありません。選挙で選ばれた人たちは国民・住民の代表者です。そのひとたちが世の中の方向を変えていく人たち。その人たちに理解して頂くよう私どもは動いていきます。夜間中学についても教育機会確保の超党派議員連盟の方々が動いてくださったことが良かったのです。

 

 衆議院文部科学委員会の資料です。法律ができる前に、下村元文部科学大臣は「各都道府県に少なくとも1つ夜間中学が設置されるようにする」と方針を出しました。

 

 今回の法律でございますが、夜間中学校からの観点で大事なのは、まず目的です。「第一条 この法律は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)及び児童の権利に関する条約等の教育に関する条約の趣旨にのっとり、教育機会の確保等に関する施策に関し、基本理念を定め、並びに国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、基本指針の策定その他の必要な事項を定めることにより、教育機会の確保等に関する施策を総合的に推進することを目的とする」

 

 第3条第四号に書いてあるのは「義務教育の段階における普通教育に相当する教育を十分に受けていない者の意思を十分に尊重しつつ、その年齢又は国籍その他の置かれている事情にかかわりなく、その能力に応じた教育を受ける機会が確保されるようにするとともに、 その者が、その教育を通じて、社会において自立的に生きる基礎を培い、豊かな人生を送ることができるよう、その教育水準の維持向上が図られるようにすること」

 

 それから、この法律で、具体的に行政の責任が書いてあるのは、第14条「地方公共団体は、 学齢期を経過した者(その者の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから満十五歳に達した日の属する学年の終わりまでの期間を経過した者をいう。次条第二項第三号において同じ。)であって学校における就学の機会が提供されなかったもののうちにその機会の提供を希望する者が多く存在することを踏まえ、夜間その他特別な時間において授業を行う学校における就学の機会の提供その他の必要な措置を講ずるものとする」

 

 これ、いくら国語を勉強してもわかりにくい(笑)。国語とは言えないですね(笑)。ただここで「地方公共団体は」といっているので、市町村と都道府県の両方です。

 

 「夜間その他特別な時間に」というのは、私は午前中の9時からでも構わないと思う。夜間でなければならない理由はないと思います。昼間の夜間中学校であっても良いと思って います(笑)。ただ特別な時間といっているので、通常の学齢期の子どもたちが通っている中学校の時間とは違う時間でということですね。

 

 この条文のしめくくりは、「就学機会の提供その他の必要な措置を講ずるものとする」。ひとつは就学の機会。中学校を設置するということですね。それから自主夜間中学を支援するというのも1つの方法であるのかもしれない。その他の必要な措置といった中には、教材を作るとか、カリキュラムを整えるとかいろいろと条件を整えると言うこともあるでしょう。

 

 その最後に、「講ずるものとする」とあるのですが、これは法律で義務づけるという意味です。地方公共団体に義務づけの表現です。必ずやりなさい。やらなかったら怒りますよ(笑)。 「講ずるものとする」というのは義務づけの意味です。どうするか、誰がするのかは考える。市町村なのか、都道府県なのか。いずれにしろ、何かをやりなさいという意味です。

 

 市町村でも都道府県でも良いというのは、ある意味無責任さがあるのですが、現場に投げているのです。必要な措置というのは、何がどれだけ必要かは現場現場で考えてくれとある意味現場に投げているところがあるのです。あとは当事者で考えることなんです。これは受け取る側にとってみたら大変な問題ですけども。

 

 それで、必ず混乱が生じるだろうと言うことを見越して、第15条があるのです。公立の夜間中学校を設置しましょうとなったときに、県か、市か、あるいは市町村の共同設置か? こういうときはみんな顔を見合わせるんですね。「地方公共団体」としか書いていないわけです。それで顔を見合わせておろおろするわけです。そのための協議の場を作るということが書いてあるのです。知事さん、教育委員会、地域の首長さん、市町村の教育委員会、 民間の団体、その他。たとえば自主夜間中学や夜間中学を設置する会など。

 

 ただ第15条の条文には「組織することができる」と書いてある。必ず組織するということにはなっておりません。何らかの形で協議して、決めなければいけない。この地域では市が作るけども、他の市町村は応分の負担にするという、共同開設にするとか。現実には、 東京の夜間中学は、他の市区や県から来てますから。ただ現状においては、県が設置した場合は、義務教育国庫負担金が付かないのです。なので、県が夜間中学を作るというのは、 いまは難しいかもしれない。

 

 しかし今月20日から通常国会がある。通常国会で出す法案の中に、学校改革の一括法があるのです。社会教育法、学校教育法、地方教育行政法、義務教育標準法、義務教育国庫負担法という5つの法律をちょっとずつ変えて、1つに束ねる一括法です。その中で夜間中学校についてどういう改正をするかというと、都道府県が夜間等の時間に授業をやる学校を設置する場合と、不登校のための教育課程の特例を行う学校を作る場合には、国庫負担をしますという法律案を作ったのです。いままで都道府県立の小中学校には国庫負担をしなかったのです。これまでの唯一例外は、中高一貫校。これを県が作った場合には国庫負担しました。新しい法律案でやろうとしているのは、不登校特例校と夜間中学を県が作るときに国庫負担の対象にしますということです。

 

 これで県は国庫負担がないからできませんという言いのがれができなくなる。すると、ますます混乱します(笑)。市町村が作っても都道府県が作っても国庫負担がありますよということです。共同開設方式という形でというのが、私も1番良い方法だと思うのですが、そういう方法と並んで、都道府県がつくるというのも可能性として考えないといけない。いずれにしても広域でやらないと作れないんです。政令指定都市が単独で作ることもできます。しかし中核市も含めて、一般の市町村、特に小さい市町村の場合は共同で作った方が良いですし、特定の市町村の域内の生徒だけというのはありえないと思います。

 

 文科省もこれまで夜間中学を、いわば見て見ぬ振りをしてきたのですが、正面から義務教育未修了の方の就学機会をどうするか、考えるようになってきたということです。こういうパンフレットを作ってね。先ほどの国庫負担の法律は、中学校だけに限ってはいません。 小学校も都道府県の国庫負担ができるようになります。ですから夜間小学校があってもよいですし、9年間一貫の夜間義務教育学校があっても良いです。義務教育来修了者のために昼間授業をする義務教育学校があっても良いです。ですからいろんなやり方があるわけです。いままでのように公立中学校の2部授業をやってますという体裁をとる必要がなくなっていくのです。こうした制度的な受け皿を作って参ります。

 

 教育課程編成に関しては、特例的な仕組みをつくらなければならないと思っています。

 

 さきほど映画「こんばんは」で見城慶和先生の、381字の生活基本漢字を学ぶことですが、 あれは、私は非常に感銘を受けました。学ぶ動機、学ぶ意欲というのは、その必要があるから。必要性を感じないものに意欲が起こるわけがないんですよね。私は、高校の数学ですが、誰も必要だと思っていない。誰もと言うのはあれですが(笑)。9割くらいの高校生は自分が数学を勉強している意味がわからない。わからないまま卒業してしまう。私もそうです。本当に必要だと思えば学ぶ。生活基本漢字の381文字は、まさに我が意を得たりということで、そうだ!と思います。

 

 ただそれは、学習指導要領どおりにはならないわけですね。381文字を先に教えるとなると学習指導要領の弾力的な取扱をしなければならない。学習指導要領には法的拘束力があると言ってきましたので。文科省がそのスタンス通り、崩さずにやるためには、夜間中学校に関しては学習指導要領を、そのまま適用しなくても良いというように変えていかなければならないし、いまやっておられる夜間中学の実践を生かす必要がある。これは制度と違うからダメですとならないように。役人というのはすぐに制度に合わせようとする。そうなると夜間中学の良さが失われてしまう可能性が非常に高いのです。

 

 頭の堅い役人がたくさんいます。わからずやの役人がたくさんいます。国の役人や、県や市町村の教育委員会にも。教科書使用義務があるでしょ。中学校の教科書を必ず使いなさいということになると夜間中学が成り立たないのです。

 

 今後、文科省は夜間中学校という制度を真っ正面から認めるわけですね。認めたとたんに変なことを言う役人が出てくる。そのときは私に言ってきてくださいね。

 

 ということで私の話を終わらせて頂きます。ありがとうございました。

2017.1.20 河北新報