2016.6.6(月)
モハメッド・アリさんが3日、74歳で亡くなった。R.I.P.。
反戦・反人種差別を叫び、世界のヒーローだった。 パーキンソン病を患う中、アトランタ五輪で聖火点灯の大役を担う姿に感動したものだ。
アントニオ猪木との格闘技対決(1976)をTVの生放送で見たとき、「なんじゃ、この茶番劇は」というのが率直な感想だったが、あとでお互いに「怖かったから」と言っているのを聞いて、妙に納得した記憶がある。
今日は、アリ氏がパーキンソン病を患う前、氏の50歳誕生日を祝うコンサートで、ロックンロールの創始者、リトル・リチャードが歌い、元気なアリ氏とハグする場面をご覧いただきたい(曲は既出につき、ナンバリングはなし)。
一時引退したリチャードが復帰コンサートを開いた(1962)際に前座を務めたのが、無名時代のビートルズだったというのは、案外知られていない。
モハメド・アリ氏死去、74歳 「蝶のように舞い、蜂のように刺す」世紀のプロボクサー
The Huffington Post 2016年06月04日
アリ氏は1942年1月17日、ケンタッキー州ルイビル生まれ。1960年、ローマオリンピックのボクシングライトヘビー級で金メダルを獲得した。その後プロに転向し、1964年ソニー・リストンを破り世界ヘビー級王者となる。公民権運動の活動家マルコム・Xとの出会いからイスラム教に改宗し、本名もカシアス・クレイからモハメド・アリに改名した。政府や社会を批判する言動がエスカレートしたことから世界王者のタイトルを剥奪され、およそ4年間にわたって試合を禁じられた。しかしその後も2度にわたって王者に返り咲き、通算19度の防衛に成功した。1976年には日本でプロレスラーのアントニオ猪木と対戦する。
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と形容された流麗なフットワークと切れ味鋭いジャブを駆使したボクシングスタイルで観客を魅了した。また、相手を挑発したり大言壮語を繰り返す言動から「ほら吹きクレイ」とあだ名された。
1981年、トレバー・バービックに敗れて引退。試合のダメージが原因とみられるパーキンソン病にかかり、長年闘病していた。1996年のアトランタオリンピック開会式では、聖火台の点火者を務めた。
1960年、プロデビュー戦でタニー・ハンセンカーと対戦。6ラウンド判定勝ちを収める。
1962年11月15日、元世界ライトヘビー級王者のアーチー・ムーアと対戦。試合前、控室の黒板に「4ラウンドでKOする」と書き込む。予告通り、試合は4ラウンドで3度のダウンを奪いKO勝ち。 (AP Photo/Harold P. Matosian, File)
1964年2月25日、WBA・WBC統一世界ヘビー級王者ソニー・リストンと対戦。アリ不利との下馬評を覆して、6ラウンドKO勝ち。試合後、興奮冷めやらぬアリはこう叫んだ。「俺は世界を震撼させた! 俺は世界の王だ! 俺は最高、俺は偉大だ!」 (AP Photo)
ベトナム戦争への徴兵を拒否し、無敗のままWBA・WBC統一世界ヘビー級王座を剥奪される。この頃から公民権運動に加わるようになる。写真は1970年9月、ニューヨークでブラックパンサー党のメンバーと共に行進するアリ。
1971年3月8日、アメリカ・ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで統一ヘビー級王者ジョー・フレイジャーに挑戦。この試合は「世紀の一戦」と銘打たれた。15回判定で初の敗北を喫する。写真は、15回にフレイジャーの左フックでアリがダウンしたシーン。 (Photo credit should read -/AFP/Getty Images)
1974年10月30日、アフリカのザイール(現コンゴ民主共和国)のキンシャサで王者ジョージ・フォアマンに挑戦。ロープに持たれながらパンチをブロックし、相手が打ち疲れたところで反撃する「ロープ・ア・ドープ」と名付けた戦法で8ラウンドKO勝ち。アリ不利の事前予想を覆し、「キンシャサの奇跡」と呼ばれた。(AP Photo)
1976年6月26日、東京・日本武道館でプロレスラーのアントニオ猪木と「格闘技世界一決定戦」で対戦。ファイトマネーがアリ18億円、猪木6億円で「30億円興行」と呼ばれた。試合は猪木がリングに寝転がり、アリの両足にキックを見舞う展開に終始し、15回引き分け。 (Photo by Sankei Archive/Getty Images)
1996年7月19日、アトランタオリンピック開会式で聖火を聖火台に点火する。パーキンソン病のため震える手でトーチに火を点けた。