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yanxia2008

【苦い思い出】

2016.3.13(日)

 5年前の3月11日、TVに流れる大津波の恐ろしい光景に恐怖を覚える中、原子力緊急事態宣言が発令され、フクイチの10キロ圏内に避難指示が出されました。  その翌日の12日、今度はフクイチ1号機が水素爆発、14日は3号機が、15日は2号機が爆発しました。

 前の職場(福島県社協)では、既に地震直後1時間ほどで県社協災害ボランティアセンターを立ち上げ、直ちに被害の確認、市町村社協災害ボランティアセンターの設置指導などのため職員が現地に向かっていました。

 しかし、爆発後は続々と住民が着の身着のまま避難、県社協のある福島市の県総合社会福祉センターにも南相馬市原町区、小高区、浪江町などから避難住民が次々駆け込んできました。

 こうして大規模災害であることが刻々明らかになるにつれ、県としての災害ボランティアセンターを設置する必要に迫られました。

 実は、県センターは県の災害対策課が事務局になり、県の発議で設置されることになっていましたが、てんやわんやの状況だったのでしょうか、一向にその動きがありません。  しびれを切らした我々は、日赤・共募・JCなど関係機関に声をかけ、県社協が中心になって県センターを設置することを決断しました。設置は14日になりました。非常時に行政に頼ることはしょせん無理なのだと悟っても後の祭り。

 その後、怒濤のような緊張と混乱の日が延々続いたことは周知の通り。私も半年間、1日も休めませんでした。

 県は災害対策本部を設け、連日、何度も本部会議が開かれましたが、その中に県災害ボラセンは構成員として入れられず、逆に県の災害対策課が県災害ボラセンに加わることもついぞなく、直接情報が入ってくることがないまま、我々は独自に動くしかありませんでした。

 幸い、県社協職員も困難の中、積極的に動いてくれ、また県内市町村社協職員や応援に駆けつけてくれた全国の社協職員、支援P、JC、災害NPOの方々が14万人を超えるボランティアの方々の活動調整や物資の調達・配布などに全力で事に当たってくれました。感謝あるのみです。

 その後、漏れ聞こえてきたこととして、県災対本部では、極度の緊張が相次ぐ中、被害が甚大であり、入ってくる情報がいずれも深刻なものばかりだったせいもあるのでしょうか、当時の本部長(知事)は本部会議で、数少ない「明るい情報」として歓迎したのがボランティア活動参加者数。会議冒頭に連日の参加者数を最初に報告させているらしいという情報でした。

 「ほっといてくれ。あなたは、自分のやるべきことに専念してくれ」と言う思いを禁じ得ませんでした。

 本部長は、最後までリーダーシップを発揮することなく、その座を去りました。

 5年たっての苦い思い出です。

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