2013.3.11(月)
シェアさせていただきます。 また、玉川さんのことを紹介した今朝の朝日新聞社説も紹介します。 玉川さん、お疲れ様です。 大変ですが、ご自愛、ご活躍ください。
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特集2 原子力災害からの再生
浪江町における「復興」検討過程から見えること
~復興の再定義、ガバナンス、原子力災害の受け止め方~
福島県 浪江町役場 復興推進課 主幹 玉川 啓
復興 (6 号) Vol.4 No.2 2013.3.
1. はじめに
浪江町では、東日本大震災が発生した約1年1か月後に浪江町復興ビジョンを策定し、その半年後に復興計画を策定した。一自治体の計画に過ぎないが浪江町の復興計画策定に当たっては様々な面が異例であった。一自治体の計画策定がNHK の全国ニュースとして報じられたことは、その象徴ともなっている。今回の報告においては、度重なるアンケートや町民委員会での度重なる議論を重ねた浪江町の復興ビジ ョンや計画の策定議論といった、アウトプットとしては見えにくい形成過程の紹介を通じて、原子力災害の被災実態、コンセンサスの重要性、本災害の適切な理解の 3 点を言及したい。
1. 原子力災害の被災実態
(1)浪江町について~被災前を知る~
福島県双葉郡浪江町(なみえまち)は、福島県の最東端に位置する人口約 21,000人の町であり、双葉郡で最も人口規模、面積ともに最大の町として、歴史、文化、商業集積の面で地域の中核的な位置を占めている。また、請戸漁港を中心とした漁村エリア、商業および人口が集積する市街地エリア、伝統工芸品の大堀相馬焼が在する農村エリア、阿武隈高地の上にある山間地エリア(日本テレビのDASH村が所在)と多様性にも富んでいる。 浪江町は原発立地町でなく、財政的に恵まれないゆえに地域住民の活動は極めて活発であった。双葉郡随一の祭りである「十日市」は浪江町商工会主体で継続的に開催され、火防祈祷の祭典である「裸参り」は消防団が運営し、地区によっては自治会による道路の砂利敷設や側溝埋設、外部財源を活用した花ロードの整備など、豊かでない財源を住民の汗と知恵で補ってきた地域コミュニティが豊かな地域であった。
(2)被災経過~被災状況を知る~
①自然災害
2011 年 3 月 11 日に発生した M9.0 の大地震により、 浪江町では震度6強を計測し、町内各所で建物倒壊や道路損壊が発生するなど、地震そのものによって甚大な被害が発生した。その後、15:33に大津波の第一波が沿岸部に到達し、以降数度の大津波が到達する。地震、津波での死亡・行方不明者は184名、流出戸数は604戸に上った。
②原子力災害
甚大な自然災害に加えて、当町では原子力災害に罹災した。震災発生の翌日早朝に政府より10km圏内 の住民に避難指示が出され、圏外への避難を開始するとともに、同日の18:25には20km圏外へと拡大し、さらなる避難を余儀なくされる。さらに水素爆発が相次いだことから 3 月 15 日早朝に町独自で浪江町全域の避難を決定し、全町民を町外に避難させる状況とな った。いずれについても政府からの直接指示がない中 で、マスコミ報道をもとに一自治体が判断し行動する過酷な局面での避難となった。
③過酷な分散避難
現在、被災前の 21,434 人のほぼ全てが町外に避難 し、46都道府県、約620市区町村に分散避難する状況に至っている。 県内には14,563人(68.7%)、県外には6,614人 (31.2%)が避難しているほか、県内だけでも仮設住宅入居者が4市町28箇所、約5,000人、みなし仮設住宅等が約 9,500人という従来では考えられない分散避難を今なお強いられる状況となっている。(図 1)
2. 浪江町における復興計画策定プロセス ~コンセンサスの重要性~
(1)「復興」「復興ビジョン」「復興計画」の意味
地域の主人公たる全町民が町外に避難している状況にあって、「浪江町」の復旧・復興を論じるだけでは町民にとっての復旧・復興とはなりえない。通常 当たり前に論じることが可能な「復旧・復興」の定義づけ、そしてこの災害を乗り越えるための、町民全体としてのコンセンサス自体を新たに作ることから始めなければならない状況にあった。その意味からも、この地における復興ビジョン・復興計画は、町民の暮らし再建、ふるさと再生のための 基本構想であり、基本計画との重い位置づけを有する こととなった。この途方もない作業を行うに当たり、「町民の間で共有すべき理念」「大きな方向性」といった価値に近い部分に関する合意形成に重点を置く「復興ビジョ ン」。そして、さらに具体的な事項に関する意識や価値観のすりあわせ、可能な限りでの対策の洗い出しを行う「復興計画」のステップで議論と検討を進めることとなった。
(2)「町民意向の把握と反映、コンセンサスの形成」
①浪江町復興検討委員会~コアとなる検討主体~
町民、有識者、国県町職員の 34 名で構成による「浪江町復興検討委員会」が名実ともに検討母体となった。 計 8 回開催され、3 部会で密な議論を行ってきた。運営面で特徴的なのは「事務局案」に対する修正意見を議論するのではなく、委員自らが事前又は当日に課題を洗い出し、抽出し、整理し、対応策を検討することを重視するスタイルを徹底した。よって基本的にワークショップスタイルを採用し、各部会での開催結果は常に模造紙に整理しつつ、次回にはKJ法的な方式でパワーポイント資料として全体共有し、資料化することで議論を積み重ねるという手法をとった。形式的にこの手法は用いられるが実質的な面まで落と 込む事例は少ないと筆者は実感している。
②町民アンケート(高校生以上)
当町では年齢、性別による多様性を把握するため、個人アンケートを重視した。高校生以上の 18,448 人に配布したところ、11,001 人(59.6%)から回答を頂いた。自由意見の記載者も約 5,000 人以上に上り、 極めて高い割合で住民意見を把握することが可能となった。 当アンケートにより、「戻ることが困難」と考える 町民の一定程度の存在、町に戻れない場合には、約半数は集住の希望があり、約半数は自らが選ぶ場所での居住を希望すること、さらには戻ることが困難と思いつつも大多数は町の復旧・復興を望んでいることが把握できた。また、全自由意見の入力と整理により、町民の意見が数字の積み上げでは反映できない多様な 想いを有していることが改めて確認された。
③子どもアンケート(小中学生)
高校生以上のアンケート以外にも、1,697 人の児童生徒に個別郵送し、1,217 名(71.7%)から回答を頂くことができた。「大人になったときどんな町になってほしいですか」「町長にお願いしたいこと」という主要項目をあえて自由記載とすることで、多様な意見の把握を試みた。 自由記載欄については、全件スキャンし、子どもの肉筆のままの回答(図 2)をアンケート結果として公表・配布した。その結果、本アンケートは単なる数値データを超えた、子どもたちが言葉にできないでいた、自分を育んでくれたふるさとへの切なる想いの強さや深さが浮き彫りとなった。アンケートの結果が共有される前は、他地域での生活拠点の再建に議論が向かう傾向もあったが、大人たちが十分な評価をしていなかった「ふるさと」が、子どもたちの視点に立つと、 都市部の豊かな暮らしを踏まえてもなお、大人になったとき「元に戻るだけで良い」魅力あるふるさとであった。幾人かの委員が胸を詰まらせ、涙を流す風景が 生まれた。結果、大人たち自身が築き上げてきたふるさとの重さや価値を見直す大きな契機となった。 このアンケートはビジョンや計画の施策に対する影響を及ぼすに留まらず、ビジョンの理念に「引き継 いだ責任、引き継ぐ責任」を盛り込むことになるなどの大きな影響を及ぼした。
図2 子どもアンケートの意見例
④パブリックコメント
通常は最終局面で実施することが多いが、今回は 「検討状況の中間報告」という中間段階で実施した。 中間報告の詳細を全世帯に郵送することにより、議論の経過を一定程度共有することを期待した。また、この段階で意見聴取することにより、大胆に修正することも相互に容易になると考えられた。 パブリックコメントで最も重いのは意見の傾向である。意見全体を体系化し、どのような面が洞察されるかを整理し、子どもアンケートの結果とあわせ、委員会の場で共有した結果、パブリックコメントを契機とした大胆な中間報告案の修正が実現した。パブリックコメントやアンケートによる策定過程への市民参画の可能性を包含した取組みとなった。
⑤専門家の貢献
また、非常に専門性が求められる分野があったため、 別途「浪江町復興有識者会議」を設置し、議論を行って頂くとともに、必要に応じて復興検討委員会に専門家を直接招くことによって議論が進展した。 特に放射線の問題については議論を進めること自体が難しい状況であったが、東京大学アイソトープ総合センター長の児玉龍彦氏のチームが多大な貢献を果たした。委員会において、安全面に立った判断・除染で実現できる部分、その一方で時間を要してしまう部分を明確に示して頂いたことにより、町外における コミュニティの確保、町内低線量地区の優先除染と復旧、次世代を視野に入れた時間がかかってもしっかりと安全の確保を進めていくまちづくり、といった観点が確立されることになった。
⑥浪江町議会の努力と協働
議会では震災後、執行部が災害対応に追われ町民対話が手薄とならざるを得ない状況を踏まえ、議会こそが担うべき役割と位置づけ、県内外各地域に出向き、町民意向の把握に尽力してきた。また復興ビジョン・ 復興計画については、全議員による「浪江町災害対策 特別委員会」を設置し、審議を並行して進めてきた。 この震災下において、議会と執行部の間では、復興検討委員会の議論内容を密なる報告、議会側として把握した町民の問題意識の提示など、課題の共有を図る努力を相互に行った。 さらに、復興ビジョンでの記載が必要な事項を、個々の意見ではなく、議会全体として整理・集約し、執行部に提起して頂いた。多数の意見であったが復興ビジョン策定が円滑化するよう、両論併記を避ける努力まで行ったものであり、貴重な論点整理となった。 議会意見は、復興ビジョンの修正・補強を図り、住民 の目線に近いビジョンとしていくうえで極めて高い寄与を果たして頂いた。これらの点については、地方自治体の議会活動におけるベストプラクティスと称するに値する取組であった。
(3)検討プロセスにおける度重なる転換
上記のプロセスを経ることによって、検討の主要局面において、幾度も大きな転換や補強が必要となった ことは数え知れない。
①時間軸による体系整理
一つ目は、通常の計画では常識的な分野別の整理を、短期・中期・長期という時間軸に整理するという大きな転換があった。議論のプロセスにおいて、まずはこの 3 年でどうしていくのかが見えなければ、その先は考えられないという切なる想いに応える必要があった。
②復興の再定義
二つ目は、戻ることが難しいと感じるアンケート結果を踏まえ、通常の復旧・復興から「すべての町民の暮らしを再建する~どこに住んでも浪江町民~」という、いわば町の復旧・復興を二次的な位置づけにする転換があった。同時に「ふるさとの再生」という「戻 る」「戻らない」議論を超えた皆の宝である「ふるさと」の再生に取り組む方向性の整理に至った。前述した子どもアンケートも大きな影響を及ぼしている。
③原子力災害の受け止め方の整理
三つ目は、特殊な「原子力災害」の中、未整理の事項であった本災害の捉え方・受け止め方という哲学的な課題を、一自治体が整理するという重大な転換があった。原子力災害、特有の問題の把握とその我が国における位置づけ、乗り越えるスタンスを整理することで、改めて一自治体の問題ではないこと、我が国全体で乗り越えるべき課題であることが明確となった。
(4)復興計画策定に際する膨大な議論
①復興計画の着手
平成 24 年 4 月に復興ビジョンが議決され、町長より半年を目途に復興計画の策定を終える旨の指示が出された。町民の多くは不透明な状況下で苦しんでおり、極力早く具体的な方向性を示すことが、避難生活下の苦しみを軽減するためにも必要との切実な想いによるものだった。
②103人、6部会体制による復興計画策定委員会
復興計画においては浪江町が震災直前から重視する「協働のまちづくり」の理念を具現化するため、公募委員に応募された約 20 名全員に委嘱するなど、多数の町民の参画を得た中で進めることとなった。経験豊かな行政職員からは「出来るわけがない」「もっと 効率的なあり方にすべき」との意見もあったが、使命感を抱いた若手職員がチャレンジすることで実現できたものであった。
実質的な議論を行うため、20 名以内で各 6 部会を 設定し、コーディネーター役の部会長に有識者を配置するとともに、それぞれの部会に担当職員と役場内事務局を設置した。また、復興ビジョンの検討と同様に、委員会(部会) で問題を出し合い、課題を抽出し、対応策を議論する点を重視した。事務局は極力その整理に注力する方針で臨んだ。あわせて再度、高校生以上の全町民を対象としたアンケートを実施し約 11,000 人の方々からの回答を踏まえて再整理、中間報告、パブリックコメン トなど同様のプロセスを重ねた。 実質 4 ヶ月において、部会を延べ 48 回開催するな ど、精力的な検討を行って頂いた。さらに外部コンサ ルに丸投げせず、避難者支援業務を行いつつ自らが避難者である職員達が数十人規模で関わることで、町民の町民による町民のための計画策定となった。
③「町外コミュニティ」の議論
当町では「仮の町」ではなく、「町外コミュニティ」 という表現を用いている。「仮の町」は候補地とされる自治体の住民にとっては、独立した「町」の一方的な設置との懸念を招いてもいるためである。 原子力災害の過酷さを踏まえると、被災者の方々が安心して暮らすことの出来るコミュニティづくりは必須である。町としても国に対してその旨を要望して もきた。しかし、その一方で候補となるエリアは、避難生活を支援して頂いている自治体であり、当該自治体にまちづくり方針がある中で、まちづくりの当事者を欠いた中で具体的な姿を描くことは、あまりにも問題を招くことが懸念された。我々の自治を追求する一方、受け入れ先の「自治」への配慮が問われる局面でもあった。また、町外コミュニティの議論を進める上でも避けられなかったのが「ふるさとの再生」に要するスパンであった。町外での生活拠点を実際にデザインする上では前提設定が不可避であり、それを抜きにしてはデ ザインできない。永遠に他地域に住まう前提とするか、一定期間を経過した後にはふるさとに戻ることも可能との前提で考えるかによって、生活拠点の整備度合いも大きく変ってくる。持ち家を前提とした完全な町を作るのか、一定期間の居住を中心とし退去後の利用策を踏まえた上での公営住宅を中心とした住まいを整備するかでは、大きく在り方が異なってくる。また、「ふるさとの再生」に関しても課題はあっても、現時点からの取組みが 5 年後、10 年後、30 年後 に繋がることが確認できた。国や東京電力には責任はあっても、まちづくりに対する熱意やこだわりを期待することは困難であり、やはり町を担う人々の想いや力が欠かせないことも明らかになった。 様々な議論を重ねる中で、当町においては、基本的にはふるさとが再生するまでの間におけるワンステップとしての中間的な住まいとして考えていくこと、 コミュニティを維持するためにも極力まとまりを目指すが、受入れ先の市町村の都市計画やまちづくり方針を尊重する方向性とした。また、理念的には一カ所が望ましいが、実際のアンケートでは仕事や就学先などの生活実態により大きく 3 カ所(いわき市、南相馬市、県北エリア)にニーズが分かれており、町民の暮らしを支える側としては、特に大きな 3 カ所には生活拠点づくりが必要との判断に至った。今後は受け入れ先の自治体との実務的な協議を重ねながら、より具体的な姿を描いていくことになる。 いずれにしても、町外コミュニティはこの問題を克服する上で必須となる数多くのソリューション(解決策)の一つであること、町外コミュニティが出来れば全てが解決するというほど生やさしい事態ではないことを付記したい。
(5)あえて回り道をすることの重要性
手間のかかるプロセスを設けることは「効率性」の 観点に照らせば、非効率な取組みとなる。しかし、住民の納得度が低いビジョンをいかに「効率的」に策定したとしても、策定後に住民の理解を得ていくには膨大なエネルギーを要する。住民説明会で共有する場合、かみ合うつくりとなっていれば、後は各論や具体論の問題として追加的に整理していくことも可能だが、根本的に視点がずれている場合は、その溝を埋めることは極めて困難であろう。 この点については、徹底して委員会方針を尊重し、審議過程に介入しない姿勢を打ち出した当町の馬場有町長が果たした役割が大きかったとともに、福島県復興ビジョン検討委員会座長(福島県復興計画策定委員会会長)でありつつ、あえて一自治体である、浪江町復興検討委員会の委員長を務めてくださった、鈴木浩先生の存在が大きい。改めて振り返ると、「価値の共有」「多様性の尊重」 「多数意見の把握」「度重なる議論」といった事柄は、「災害対応計画」「復興計画」という範疇を超えて、 本来あるべき、町の基本構想づくり、まちづくり計画 でも同様に必要とされるものであった。通常は切迫感や必要が意識されないため、手続き面での円滑さ優先 してきたに過ぎないと感ずる。
3. .我が国における原子力災害の受け止め方
本災害における復興は、いまだ我が国では「東日本大震災」という定義の中で語られてきたが、上記に至る検討プロセスにおいて、その点自体が誤解であることが見えてきた。
「東日本大震災」という世界的な災害が生じたのは議論を待たない。その上で、もう一つの世界的な災害が生じたことを改めて位置づけなければならない。 「原子力災害」「東日本放射能汚染災害」。エネルギー政策を推進する過程で生じるいわば「人災」の側面を強くする災害である。
自然災害における「復興」の重さ、そこに加え日本が社会的なコンセンサスのもと設置した施設が引き起こした社会災害。この二つの災害を明確に峻別することで、原子力災害被災地域の復旧・復興の難しさ、 我が国全体の問題として対応すべき災害ということが改めて理解されるようになるのではないか。
この問題についてもいずれ「費用対効果(費用対便 益)」の議論が生じることは不可避である。費用の特定は容易だが、その一方極めて難しいのが、得られる 効果・便益(その裏にある失われる効果・便益)の特定であろう。
放射能汚染地域が存在し続けることによる国際競争力の低下、そして我が国の政治・行政に対する信頼性の低下も避けられない。前者では既に食産業の輸出額低下が生じるなど海外から見れば地域問題には収まらない。後者では既に原子力発電所の再稼働問題への国民感情の強い抵抗として現れている。ソーシャルキャピタルは毀損するのは容易であるが、醸成するのは極めて困難である。
これらの問題は、まさに国家戦略、国土政策上の課題である。国策により招いた原発災害を我が国はどのように収拾していくのか。流民と化した数万人の国民を国としてどのように救っていくのか。我が国の中に汚染地域が存在することによって、我が国全体としてどれほどの損失が生じることになるか。国家としてのあり方、国が存在する価値や意義を問うことにもなる。
6. 終わりに
2012 年 4 月 19 日の臨時議会において満場一致で 浪江町復興ビジョンが可決され、さらに 2012 年 10 月 12 日の臨時議会で同様に満場一致で浪江町復興計画が可決された。さらに 2013 年 4 月より「区域見直 し」により立入規制が見直され、除染や復旧が加速することになり、本格的に復旧モードに入ることになる。計画にも掲げたが、避難先での生活の再建(健康、 仕事、住まい、それらを支える賠償問題・政府補償のなど)は喫緊の課題であり、同時並行でふるさとの再生に関しても多くの課題がある。事故発電所の事故収 束、放射性物質の除染と放射線量の低減、毀損したイ ンフラや住まいの再生、医療・保険・介護、商業など 生活関連サービスの回復、暮らしを支える農林水産業 の再構築、約 1000 の事業所の再開、失われた大規模 雇用の場の確保。ハードインフラに限らず、「まち」 を構成する全てを再構築する、世界でもまれに見る課題に向かおうとしている。 浪江町復興ビジョン、そして復興計画、これは一自治体における、町民の、ふるさとの復旧・復興のためのビジョンであり計画である。しかし、それをもって 一自治体の問題と混同させてしまうことは最も避けなければならない。 チェルノブイリやスリーマイルを踏まえれば、ここまで自治体に判断や対応が求められた事例はない。今は浪江町という一自治体が国の「支援」を受け、 主体的に課題の抽出や克服策の案出、具体的な取組みにチャレンジしているが、この問題自体は「支援」で はなく、我が国全体でいかに対応していくべきか、リソースを持つものがいかに主体的に取り組んでいくかという次元ではじめて克服可能となる課題である。 この点を改めて指摘し、報告を終えたい。
筆者注 筑波大学大学院政策科学研究科修了。福島県庁での実務経験を経た上で、企業経営及び計画・評価・ガバナンスを専攻。 福島県職員として双葉郡の地域振興、福島県全体の総合計画策定、政策評価、重点プログラム、部局間調整に携わる。 震災前の 2010 年より協働のまちづくり、行財政改革推進のため浪江町に出向し、1 年を経過した際に家族とともに被災する。以降、災害対策及び復興ビジョンの策定に携わる。
参考文献
1) 浪江町「浪江町復興ビジョン」
2) 浪江町「浪江町復興計画【第一次】」
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原発、福島、日本─もう一度、共有しよう
2013年3月11日 朝日新聞
記者を乗せたバスが東京電力福島第一原発の構内へ入る。周辺のがれきは片付き、新たな設備や機器が並ぶ。一見、ふつうの工事現場だ。 ところが、海沿いの原子炉建屋に近づくと状況は一変する。水素爆発の衝撃で折れ曲がった巨大な鉄骨、ひっくり返った車――。1~3号機の周辺で測った放射線量は、毎時1ミリシーベルトを超えた。まだ人が入っての作業はできない。 炉内は冷却を保っている。だが、建屋には毎日400トンの地下水が流入し、その分、汚染水が増え続ける。貯水タンクの増設でしのいでいるが、2年後には限界がくる。「収束」とはほど遠い現実がそこにある。 防護服と全面マスクに身を包んだ人たちが黙々と働く。多くは、東電以外の協力会社や下請け企業の作業員だ。事故直後、命がけで対応にあたった人たちは「フクシマ50(フィフティー)」と世界から称賛された。 いま、線量計をつけて働く作業員は1日約3500人。6割以上が地元・福島県の人たちだという。「フクシマ3500」の努力があって、私たちは日常の生活を送っている。 ■広がる孤立感 原発周辺の町は先が見えず、苦しんでいる。 浪江町復興推進課の玉川啓(あきら)さん(41)は、町の人と話す時、安易に「復興」という言葉を使わないようにしている。会話が進まなくなるからだ。 「復興」には、災害そのものは終わったという語感がある。「しかし、避難している人たちにとって事故はまだ現在進行形なんです」。住民は今、約600の自治体に分散する。 被災者には孤立感が広がる。 福島市内の仮設住宅に移った双葉町の60代の男性。東京に住む娘に近い埼玉県に戸建てを買い、終(つい)の住み家にしたいと思うが、東電が提示する賠償金ではまったく足りない。 福島県内とされる「仮の町」にも行くつもりはない。「放射能を気にして孫も来ないようなところでは意味がない」 新しい町長にも、議会にも期待はしていない。「誰を選んでも何を訴えても、そこから先に届かないもの」 原発が立地する他の自治体との距離も開くばかりだ。 自民党本部で2月15日、原発のある道県の議会議長を招いた調査会が開かれた。相次ぐ「原発の早期再稼働を」の声に、福島県の斎藤健治議長は「これ以上、一緒に議論できない」と途中で席を立った。 大震災の前までは、福島第一に原子炉の増設を求めるなどバリバリの原発推進派だった。 「『原発は必要』という人ほど事故後の福島を見に来ない。会合の場でも言ったよ、自分で3号機の前に立ってみろって。そしたら再稼働なんて簡単に言えなくなる」 ■世界に向けての発信 事故直後は、「恐怖」という形で国民が思いを共有した。2年経ち、私たちは日常が戻ってきたように思っている。だが、実際には、まだ何も解決していない。私たちが「忘れられる」のは、今なお続く危機と痛みと不安を「フクシマ」に閉じ込めてしまったからにすぎない。福島との回路をもう一度取り戻そう。 浪江町では、グーグルが協力し、「ストリートビュー」というサービスで町並みの画像を記録していく企画を始めた。町民からの「様子が知りたい」の声に応えるためだが、原発事故に見舞われた町のありのままの姿を、世界に向けて発信する狙いもあるという。原発付近一帯を保存し、「観光地化」計画を打ち上げることで福島を語り継ぐ場をつくろうという動きも出ている。いずれも、現実を「見える化」して、シェア(共有)の輪を広げようという試みだ。 「電力会社が悪い、国が責任を果たせって言えるのは僕らが最後かもしれません」と、浪江町の玉川さんは言う。「何が起きたのか、今ちゃんと共有して賠償制度や避難計画を見直さないと、今度どこかで事故が起きたら『福島のことを知ってて(原発を)受け入れたんでしょ。自己責任です』と言われておしまいになりかねない」 ■私たち皆が当事者 その玉川さんが昨年4月、原発を訪れた際、ソーシャルメディア「フェイスブック」に書き込んだ投稿が、「シェア」という機能によって、人から人へと広がり続けている。すでに1万5千件を超えた。そこには、こんな言葉がつづられている。 「今回の事故は最悪ではなかった/幸いなことに最悪を免れることができたという、恐ろしい事実をもっと皆で共有すべきと感じます」「福島を支援するということが誤解/福島の地で今を支えている/それによって日本が支えられている/皆がまさに当事者なのです」